*第4走* 坂部秀樹(九条の会掛川)

 

九条の会の歴史上での位置

 

【Ⅰ】私達の「九条の会掛川」は今年3月で発足14年になる。前年に大江健三郎氏等9氏により「憲法9条を改憲させない」1点でつながり立ち上がった九条の会の呼びかけによるものだ。

掛川に居住する宗教者、地元新聞社社長、自然保護活動家、医師、児童文学者、元公務員、教師、主婦、会社員など、政党支持先も価値観も異なる多様な「集まり」だ。

文字通り「9条は変えさせない」だけで繋がっている。

代表は置かずスタッフ(事務局とは呼ばずに単なる一スタッフの集まり)会で活動を話し合う、財政は事業活動とカンパのみに依る。年1回の記念講演会、数回の憲法寺子屋(最近は憲法カフェ)と「通信」の発行。時々の「探鳥会」。

憲法寺子屋(憲法カフェ)では当初から、車座で自由討論、結論は出さないことで運営している。

これ以外の取り組み(日本の青空の上映等々)は全て会員の自己責任(アベ政権が主張する意味ではない)で参加する。

但しスタッフ会で話し合い、内容により「通信やチラシによる会員への情報提供」の形で運動を全面的にバックアップする。財政が途絶え、スタッフ会へ参加する人が無くなる時点で「会」は消えることになっている。

 

肩の力を抜いて、いつも違う意見を交わしあい、

「少~し」の緊張感が、発足以来途切れることなく活動が続いている要因かな?と考えている。

 

 

【Ⅱ】私を含め九条の会や市民運動の場で長らく「若い人たちの活動への不参加」の嘆きが続いている。だが嘆くだけでは要望は見えない。

この要因として政治への無関心と保守化があるんだろう。

確かに自民党政権による教育行政のゆがみ反動化の「成果」には違いない。その中にあって60~70年代に安保を闘った(もしくはその時代の空気を吸った)世代(即ち私達)は現政治に異議を唱え続けている。

60~70年時代、政治的に育った私達はその後、高度成長の波もあって、会社や仕事で身のある種の「拘束」の下で働き、あるいは子育てに没頭(引き続き闘い続けた人もいるが)してきた。

やがてそこから定年、脱却?(私的には2005年頃)束縛から解放?され、自由に物が言える時期を迎えたといえる。これが九条の会が発足した時代背景と重なっている。

 

「9条守る1点、団体ではなく個人の参加」の九条の会の組織形態は、会社の拘束から解き放たれ、価値観が違う人とも連帯できることは、私自身にとっても非常な魅力だった。

 

おそらく九条の会が燎原の火のごとく全国に拡がったことは、このあたりと関連するのではないかと考えている。

であるならば、こうした土壌と違う環境で育った世代に、私達の同じ「時代的価値観」を要求しても、いささか無理とはいえないだろうか?

15年安保のなかで生まれたシールズの若い世代が、九条の会を立ち上げた私達世代の背中を見ながら彼らなりのやり方で成長を続けている。

 

翻って私自身をみると、戦中戦後の厳しい時代に闘ってきた諸先輩とは違う形で、しかも背中を見ながら闘い成長してきたといえる。私達とは違う時代背景のなかで成長しようとする現代の若者。

若い人の無関心、保守化を嘆いている間に、私達は開き直って、私達世代の責任でアベ政権を倒すこと。若い世代に見せることのできる背中へ私達自身を変えていくしかないように思うがどうだろう。

 

“自己変革なくして社会変革なし”といえないだろうか?

まさに「天に向かって唾を吐く」とは私自身のことかもしれない。

 

 

 

〒436-0074

静岡県掛川市道神町58-10

九条の会掛川スタッフ 坂部秀樹(元私大、市民生協職員)

73歳

TEL.090-4860-4457